竹の響きに誘われて② ~普化宗尺八奏者 弾眞空~

インタビュー
弾眞空さんは、普化宗尺八の奏者であるとともに、日本でも数少ない、地無し延べ管(地無し尺八)の製管師です。29歳の頃、尺八のレコード「竹の響き」を聴いて、普化宗尺八に目覚め、インド・ネパールにも尺八修行の旅に出られるという異色のご経験をお持ちです。本日は、弾さんに、普化宗尺八の魅力についてお伺いいたしました。
弾眞空さん
・ダン・アート企画 / 地無し管工房代表
・虚無僧研究会終身会員
・一般社団法人 東洋音楽学会正会員

――――なぜ、ネパール・インド尺八行脚を決心されたのでしょうか。

私が尺八家を志したのは30歳になってからです。幼少のころから音楽をやっていたとはいえ洋楽が中心でしたので、本格的に普化宗尺八を習得するのには相当の覚悟が必要でした。

ちょうどその頃に知り合ったネパール人が、帰郷の旅に誘ってくれたのですが、私はそれを人生の区切りにしようと思って決行しました。この間に学んだ多くのことがその後の35年間を支えてくれたと思っています。

――――ネパール・インドにはどのくらいの期間いかれたのでしょうか。

半年間くらいでしょうか。一つのけじめというか区切りにしようと思いましたので、仕事も洋楽も全て辞めて、全部捨てるという思いでした。ですので、洋楽やジャズ、クラシックを聴くことも辞めて、民謡やわらべ歌だけを聴いていましたね。2020年にリリースしましたCDの紹介文を書いていただいた柘植先生(東京藝術大学名誉教授)にも、そのことはお話ししました。

【ネパール・インドへ】 (“響きの自叙伝”より)
「竹の響き」を聴いて以来、尺八の音が頭から離れなくなった。
この音楽は、片手間ではできない。
 悶々とした日々を送りながら、悶々とした演奏をしていたある日、東京で仕事をしていたケサバラル・マレクというネパール人と知り合った。
そして「今年の秋に故郷へ帰るので、一緒に行かないか」と誘われた。
 心身共に分岐点に立っていたこの時期、尺八行脚の第一歩を踏み出した所が、ネパールの首都、カトマンズだった。
 ケサバの紹介でインターナショナル ゲスト ハウスに逗留。 
 バックパッカーの泊まるゲストハウスは、たとえ個室であっても、音は筒抜けなので、尺八を吹くのは専ら屋上だった。ある日、尺八を練習しようと屋上に上がっていくと、五十がらみの男がいたので、会釈をかわして一時間ほど吹いた。次の日も、また次の日も繰り返し・・・三日目にようやく、その男性に話しかけた。
「よく会い、ますね、どちらからきましたか?」
返事がない、不思議そうに私の顔を見ていたが、嫌がっている様子はなかった。
次の日は、彼の方から近づいてきて、何やら手ぶりをした。
“なるほど、てっきり日本人と思っていたが、言葉が分からなかったのか。”と勝手に思い込んだ。
しかし、そのあと渡されたメモを見てびっくり。
“私は、耳の全く聴こえない金子義償というものです。これからインドに入ろうと思うのですが、一緒に行ってくれる人を探しています。”と書かれていたのです。
金子さんは、画家で、少し前に亡くなった後援者の供養を兼ねて旅をしているとのことでした。これが縁で、以後4ヶ月近く、彼と一緒にインドを旅した。
その後、ガンジス川沿いにあるヒンドゥー教の一大聖地、ベナレスに移動。
この地を訪れる日本人バッグパッカーが、一度はお世話になる「久美子の家」に逗留した。
ベナレスの北約10㎞の所に釈尊が初めて教えを説いた初転法輪の地、サールナートがある。この地を最後にクミコハウスを離れて、ブッダガヤへ。苦行で瀕死のシッダールタに乳粥を供養して命を救ったといわれるスジャータの村がある。有名なマハーボディ寺院や悟りを得た菩提樹を訪れた。
 ブッダガヤの日本寺では除夜の鐘を撞いた。
 <梵鐘というのは、鐘の音だけでなく釣り下げている部分の軋みが程よいサワリ音を発していて、大きさに応じた基音の他数多くの倍音が混然一体となって独特な響きを放つ。子供の頃から梵鐘を撞くことは幾度となく経験していたのだが、1987年12月31日の体験は特別の意味を持った。—というのは、同時に鳴る打撃音・楽音(振動する基音と倍音)・軋みなどの噪音が、それぞれ独立した音として時差をもってイメージできたことと、それが独奏尺八の響きの観念とリンクしたからである。授記音聲曼陀羅「虚空」の音を捉えた!

――――帰国後、藤由先生とはどのようなきっかけで出会われたのでしょうか。

「竹の響き」のLPを買ったときに、「普化宗史」も買ったのですが、「普化宗史」の発行所が普化宗史刊行会となっていましたので、そこに連絡をしたのが藤由先生との出会いのきっかけでした。
インドに行く前にも有名な先生のところに習いに行ったのですが、どこに行っても空山先生の音色はなかったのですね。それで、インドに行ったのですが、帰国してみると、空山先生の尺八を継いだ方は藤由先生くらいしかいないということを知りまして、もうそこに行くしかないなということで、訪ねたのです。
しかし、最初は入門の許可がおりなくて、三回くらい演奏会を聴きに行った際に、“今度、集まりがあるから来なさい”と声をかけてもらいました。

――――入門が許されてからは藤由先生の所には定期的に通われたのでしょうか。

そうですね、新宿に月一回くらい通いましたね。昔の家は離れがありましたので、そこに皆が集まっていました。
現在は千笛会を主催されていていますので、今はそこに通っています。ですので、もう30年くらいにはなるでしょうか。千笛会は縦横無尽に千本の笛を極めようという意味です。

【入門】 (“響きの自叙伝”より)
帰国後すぐに藤由越山師に連絡を取り、教えを請いたい旨伝えたところ、「一度演奏を聴きに来なさい」と云われた。 それでは!ということで<風呂屋の二階コンサート???>なるタイトルだったと思うが、銭湯の二階の広間で行われた会に行き、初めて普化宗尺八の生音を聴いた。
 <想像していた以上に静謐で安定した音色は、伝統音楽の神髄を醸しだしていた>
さっそく入門を申し出たのだが、あまりいい返事が返ってこない。
 「今度、スペース仙川でライブをやるから聴きに来なさい」ということで、この日の入門は許されず。 
 今日こそは弟子入りを果たそうと「スペース仙川」に出向いて演奏を聴いた。 演目は「供養」などの普化宗尺八楽と抒情歌のメドレーなどバラエティーに富んだものだった。
 終わってから、再び「弟子にしてください」と懇願。 すると先生から質問が返ってきた。
 「尺八の筒音がCisの場合、ツの音は何になる?」 
???・・・。
 ドイツ音名が出てくるとは思ってなかったので、ちょっと戸惑ったが、「Eです」と答えると、
「ふむ」・・・。 
「今度自宅に来なさい」  
この日も入門許可は出ず。
 昭和63年(1988)4月23日(土) 指定された午後一時、越山先生宅訪問。
 すでに稽古が始まっていて、後に兄弟子となる諸先輩方の尺八の音色が中庭に響いていた。
 稽古が終わると、先生がおもむろに立ち上がって「今日から田中君が仲間に加わるので、みんなで飲み屋に繰り出そう!」といって、出掛ける用意をさせた。
 この時は何が何だか分からなかったが、とにかくこの日、私は藤由一門の門下生となったのである。

(続く)

タイトルとURLをコピーしました