特定非営利活動法人テラ・ルネッサンス理事長
1975年和歌山県生まれ
学生時代、カルカッタでマザーテレサの臨終に遭遇したのをきっかけにマザーテレサのボランティア施設でボランティア活動に参加。国際協力やNGOの活動を本格的に始める。
大学卒業後は青年海外協力隊員としてハンガリーに派遣され、旧ユーゴ諸国とのスポーツを通じた平和親善活動などに取り組む。
帰国後、カナダ留学を経て国内のNGOでパキスタンでの緊急支援、アフガニスタンの復興支援活動などに従事。
2005年よりテラ・ルネッサンスのアフリカ駐在代表として、ウガンダ及びコンゴ民主化共和国における元子供兵社会復帰プロジェクトに取り組む。
※)テラ・ルネッサンスは「地雷」、「小型武器」、「子ども兵」、「平和教育」という4つの課題に対して、現場での国際協力と同時に、国内での啓発・提言活動を行うことによって、課題の解決を目指している特定非営利活動法人です。
■エンジニアを志していた学生時代
―――小川理事長は、長らく駐在員としてアフリカの支援活動に従事されていますが、国際支援活動を志したきっかけについてお聞かせください。
小川:大学では電子工学を専攻したのですが、小さいころから野球が大好きでしたので、 “将来は、エンジニアの仕事をやりながら、大好きな野球も続けていこう”と、ぼんやりと考えていました。
その後、大学4年生になって“もう少し将来のことを考えてみたい”と思って、アメリカに留学しました。表向きは英語の勉強が目的だったのですが、沢山の人たちとの出会いを通して “会社に就職するような人生だけが、人生ではない”と、強く感じるようになりました。
両親からは、安定した職業についてもらいたいという期待を背負っていましたので、帰国後は、みんなと同じように就職活動をはじめたのですが、“このまま就職してエンジニアになって、ほんとうによいのだろうか”という葛藤は続いていました。そこで、思い切って青年海外協力隊の試験を受けてみたのです。海外留学の経験があるとはいえ、大学ではエンジニアになるための勉強しかしていませんでしたので、正直、採用される自信はなかったのですが、小さいころから野球をしていたことが幸いして、思いがけず、野球を通じた国際支援活動の道が開けました。
■マザーテレサの臨終に遭遇し、国際支援活動の道へ
―――エンジニアから青年海外協力隊への方向転換はとても大きなように思いますが、迷いはなかったのでしょうか?
小川:ありましたよ。(笑)
実は、青年海外協力隊への採用が決まってからも、国際支援活動の道に進むべきかどうか、ずいぶんと悩みました。“留学して人生観は変わったけれど、自分は貧しい人たちに対して何をしたいのだろうか?”と。
ちょうどそのころ、“インドにあるマザーテレサの施設では、誰でもボランティアとして受け入れてくれるらしい”ことを耳にしましたので、思い切ってバックパックを背負って一か月ほどの旅にでました。
このインド旅行は、私の人生の中でも最も印象深い経験のひとつとなりました。マザーテレサのもとでボランティアをするためにインドに来たのですが、カルカッタに到着する日の前日に“マザーテレサが亡くなられた”との悲報が入ったのです。私は急いで、マザーテレサが滞在していたといわれるマザーハウスに向かいました。
当時は、世界中の人たちがマザーテレサの悲報に注目して、沢山の人たちが集まってきていましたので、ふつうに考えても、旅行者同然の私が行って、相手にされるはずはありません。無理は承知の訪問でしたが、マザーハウスの人たちは、異国の大学生である私を、快く受け入れてくださり、お別れのミサにも参加させてくれたのです。
これまで大学生として生きてきた自分が、なぜか、いま、マザーテレサのお別れのミサに参加している。この不思議なご縁に、強い運命を感じざるを得ませんでした。その後、施設で1週間ほどボランティアに参加しましたが、心の中には“卒業したら協力隊に行こう!”という強い決意が固まっていました。
■「私たちは、幼馴染と殺し合わなくてはならなかった」 旧ユーゴスラビアの人たちとの出会い
―――青年海外協力隊ではどのような活動をされていたのでしょうか。
小川:青年海外協力隊では、旧ユーゴスラビア(クロアチア)との国境沿いにあるハンガリーの街に派遣されました。学生時代にボランティアに参加した経験があったとはいえ、紛争問題については全くの素人だった私が、旧ユーゴスラビアの紛争で被害に遭った人たちや、元兵士の人たちとの出会いを通して、紛争の悲惨さを知るようになりました。特に、現地で出会ったクロアチア人女性の話は、いまでもとても印象的に残っています。彼女は17歳で紛争に参加しましたが、出身がクロアチア人とセルビア人がともに住む街だったために、幼馴染と殺し合わなくてはならなかったのです。
あるとき、「一緒に写真を撮ろう」と彼女を誘ったことがあるのですが、彼女の答えは「No」でした。不思議に思って尋ねてみると「写真に写った自分の姿を見ると、幼馴染やその家族に銃口を向けていた頃の自分の姿を思い出してしまうから」と、静かにその理由を打ち明けてくれました。
私が赴任されたのは、紛争が終わって5年ほど経った頃です。すでに平和を取り戻しつつあると思っていましたが、“紛争で傷ついてしまった人びとの心は、簡単に癒されることはない”という現実に衝撃を受けました。紛争に兵士として参加した人たちの中には野球選手だった人も多く、彼らとの交流を深めることで、次第に紛争や子ども兵の問題に関心を持つようになっていきました。
――――偶然とは思えないような出会いを通して、現在の活動に至っているのですね。
小川:そうですね。いまの学生さんたちはキャリアプランをしっかり持っていて、凄いなと思いますが、私の場合は、色々な人たちとの出会いを通して、いまの自分があると思っています。
『ぼくは13歳、職業、兵士』(2005年、合同出版)
『ぼくらのアフリカで戦争がなくならないのはなぜ』(2011年、合同出版)
『「アフリカ人の「選択の自由」を尊重する援助とは?―元子ども兵の社会復帰支援から潜在能力アプローチの可能性を探る」(上村雄彦編 『グローバル協力論入門―地球政治経済論からの接近』 P.89-101, 法律文化社, 2013)など。