昭和12年東京生まれ。普化宗尺八院代(大師範)伝承者。
琴古流尺八荒木派指法を木村友斎師に、現代尺八奏法を堀井小二朗師に学ぶ。
慶応義塾大学在学中の1960年、巨匠高橋空山師に巡り合い、空山師が亡くなるまで26年間にわたり教えを受け、師の集大成した普化宗尺八曲と技法を伝授される。日本および海外におけるテレビ放送、教育番組、各種演奏会などに出演。普化宗尺八の後進の指導や普及活動に努めている。
1.尺八との出会い
――――藤由先生は、普化宗尺八の伝承者として、現在、国内外に沢山のお弟子さんがいらっしゃいますが、尺八との出会いについてお教えください。
藤由:私が尺八に出会ったきっかけは、長編小説の『大菩薩峠』(中里介山著)です。
『大菩薩峠』を知るきっかけとなったのは、谷崎潤一郎の『文章読本』という本ですが、この本には『大菩薩峠』について書かれた箇所があるのです。
当時、私は新宿の高校に通っていたのですが、学校の図書室に『大菩薩峠』が全巻揃っているのを見つけました。読み始めたのは二年生の夏の初め頃だったと思いますが、夏休みが終わってもまだ読み続けていたのを覚えています。『大菩薩峠』には「鈴募の巻」という章があって、ここに尺八についての名文があるのですね。『大菩薩峠』をきっかけとして尺八を始める人は少なくないと思いますが、私もそのひとりです。
大学に進学すると尺八クラブに入部しました。尺八クラブの尺八というのは、明治時代以来現在まで、筝、三味線、尺八の三曲合奏が主な目的なんですね。それは私が思い描いていた尺八とは全く違ったものでした。そこで、自分が求めていた尺八を探し求めて、尺八探求の旅が始まりました。神田の古本屋街にも足を運んで、尺八に関する本を隅から隅まで探したこともありました。国会図書館にも行きましたが、そこで、「日本音楽」(日本音楽社編)という邦楽雑誌の中に“高橋空山”という名前を見つけたのです。私はこの雑誌を読んで、“高橋空山という方は普通の人ではない。”と感じました。しかし、お会いする機会もなく、ずっと気になったまま日々を過ごしていました。
転機が訪れたのは大学四年生のときです。尺八クラブの後輩から「高橋空山を尋ねに行く」という話が耳に入ってきたのです。詳しく話を聞くと、音楽の先生から「君、尺八をやるなら良い先生を紹介するよ。」といわれたとのことでした。「それなら、俺もつれて行け」ということで、一緒に訪問することになったのです。
二人で先生のお宅を訪問しました。私は先生の迫力あるお話しにぐいぐいと引きこまれました。一方の後輩は、その迫力の前に圧倒されて、ついて行けない様子でした。先生はその様子をご覧になられてか、私に対して「君だけまた来なさい」とおっしゃいました。その日をきっかけに、私は先生のお宅を訪問することになったのです。
後日、先生から「何故、君は尺八に興味を持ったのか?」とお尋ねがあり、『大菩薩峠』を読んだことをお話すると、先生は、著者の中里介山先生との出会いについてお話になられました。
先生は北海道大学を卒業後、恩師のすすめで世の中のことを知るために虚無僧になり、東京を流し歩いていると、早稲田鶴巻町で後ろから“ぽん”と背中をたたく人がいたそうです。振り返ると一人の恰幅のいい男が立っていて「うちへ来て尺八を吹いてくれないか」というのです。ついていくと表札には「中里」と書いてあり、さてはと思い、「中里介山先生ですか?」と尋ねると、「そうだ」と返事が返ってきます。二人でお屋敷に入って、中里先生が羽織袴に着替えて端座してから、尺八の演奏が始まりました。
中里先生は「本物だ。これから尺八や虚無僧についていろいろと教えてくれ」と言って、交流が始まったということでした。
私の尺八の出発点は、『大菩薩峠』です。大学の尺八クラブや古書巡りを経て、空山先生と出会い、『大菩薩峠』の尺八に辿りつきました。私はここで原点に戻ったのです。尺八の神様が『大菩薩峠』を縁として私を先生に引き合わせてくださったのでしょう。
2.鈴法庵での修行
――――鈴法庵での修行はどのようなものだったのでしょうか。
藤由:道場に入ると、まず、神棚に向かってご挨拶します。それから先生にご挨拶します。帰る時もまず、神棚にご挨拶してから先生にご挨拶します。
兄弟弟子も同じようなことを語っていましたが、先生の所に行くときはプレッシャーで気が重いのですが、帰るときは爽快でした。それはもう、見事なくらいに爽快そのものでした。そのようにして、いつも私たちを帰してくださっていたのです。
私の場合、道場では最初の二、三十分くらいが尺八のお稽古です。ただし、その場に臨むために、家ではかなりの練習を行いました。先生は一曲ごとに楽譜を書いて下さるのですが、すべて手書きですから、それは大変だったと思います。
習っていたのは普化宗尺八ですが、何でも勉強になるからと、尺八以外の曲も練習しました。最初の稽古は「一二三調べ」という手ほどきの曲から始めたのですが、同時に、シューマンのピアノ曲、「トロイメライ」もやりました。その後、世界各国の国歌を一通り練習しました。
先生は、「私は、ツィゴイネルワイゼンだって吹く。」とおっしゃっていましたが、そういう自由さがあったんですよ。メインは普化宗尺八ですが、補助手段として他のジャンルをやるというのは非常に参考になりました。
私の場合、中国や韓国、インドの古典音楽もやりました。お囃子の曲などもやって、尺八に取り入れています。
――――「高橋空山居士の世界」(白上一空軒著)には、厳しい剣術の稽古の様子が描かれていますが、同じような稽古をされたのでしょうか。
藤由:『高橋空山居士の世界』の頃は戦時中でした。戦場から生きて帰ってくるために、できるだけ鍛えておかなくてはなりませんから、剣の稽古もお稽古事ではなかったのです。戦時中は剣と禅の教えを中心にして、余力のある人にだけ書や尺八を教えていたそうです。
私も剣を学びましたが、『高橋空山居士の世界』にも書かれている、「真っすぐの剣」も稽古しました。剣は、基本として五つの方向の剣をやります。次に、基本の剣を応用した動きについて繰り返し稽古します。基本とその応用の仕方を学ぶと、あとはそれを広げて行くことができるのです。
書については、まず、筆の入れ方、伸ばし方、止め方についての筆法を習いました。
先生の教え方の特徴は、お手本を見て書くのではなく、やり方を教わるというものです。先生が私の向かいに座り、私の手をとって筆の運びを教えてくださるのです。
なぜ、このような教え方なのかと言いますと、先生の書の流派が筆道家という、皇室で教えていた流派だったからです。尊い方に教える際に、後ろから手をとるわけにはいきませんからね。
――――禅ではどのようなことを学ばれたのでしょうか。
藤由:先生の禅は臨済宗の在家の禅ですから座禅と公案によるものです。無門関の第一則は「趙州和尚が“無”と言った。この意味を答えよ。」というものです。碧巌録(へきがんろく)では「百丈和尚が“独座大雄峰(どくざだいゆうほう)”と言った。この意味を答えよ。」というものもありますが、これに答えていくのが(臨済宗の)禅の修行です。禅については専門的に習ったわけではありませんが、無門関だけは全部終わりました。戦中の頃と比べますと、随分と手加減をしていただいたようにも思いますね。
3.普化宗尺八
――――先程、三曲合奏のお話がありましたが、普化宗尺八と他の流派の尺八の違いについてお教えください。
藤由:もともと尺八の中心は普化宗尺八だったのですが、江戸時代の中頃から、筝や三味線との合奏音楽が流行って、明治時代に入るとすっかり古典派の中心になりました。それを三曲尺八というのですが、「三味線を骨とし、筝を肉とし、尺八を皮とする。」ということもあります。
私が大学で入ったクラブも三曲尺八でしたが、他の大学のクラブもほとんどが三曲尺八を中心にやっています。
さて、今はネット社会ですので、海外の方との交流も容易になりました。私の教え子は世界各国にいますが、フランス、スペイン、イタリア、イギリスのほか、アメリカの方も何人か教えました。
日本で尺八と言えば、三曲尺八のイメージが強いのですが、海外の方は最初から普化宗尺八のようなものを目指しています。ですから、私は彼らを歓迎して教えているのです。
フランス人の弟子の王野蘭山(おおのらんざん:本名Thierry DESROY)は日本に10年ほど住み、その後、フランスで活躍しています。王野蘭山の名は、私が命名しました。
――――普化宗尺八の音色の荘厳さはどこからでているのでしょうか。また、禅の精神は尺八にどのような影響を与えているのでしょうか。
藤由:尺八に限らず、楽器はその人の表れだと思います。文は人なり、書も人なり、音も人なりということでしょう。
尺八では「虚空」という曲が一番格調の高い曲だと思っていますが、この曲を吹くときは空山先生から習った剣の構えを参考にすると、ピッタリくるように感じています。
4.LPレコード「竹の響き」と「普化宗史」の発刊について
――――空山先生は尺八の演奏を録音させなかったと伺っておりますが、レコード「竹の響き」が世に出た経緯についてお教えください。
藤由:空山先生は、昭和36年に日本音楽学会から派遣されてヨーロッパで演奏と講演をされましたが、これが正式に日本の本当の普化宗尺八を海外に紹介した最初であったと思います。その後、空山先生の記事が新聞に掲載されて、それを見たレコード会社の人が、私に録音をさせて欲しいと相談を寄せてきました。“いつ需要がでるかはわからないので、録音できるときに収録しておいた方がよい”ということでした。そのため、「竹の響き」は収録して、すぐに世に出たわけではないのです。
また、『普化宗史―その尺八奏法の楽理』の発刊に際しても、製本から販売と、出版のお手伝いをさせていただきました。この本は、いまでも尺八三大文献の一つとして定評があります。尺八三大文献とは、『尺八史考』(大正7年栗原廣太著)、『琴古流尺八史観』(昭和54年中塚竹禅著)そして、『普化宗史―その尺八奏法の楽理』(高橋空山著)です。
5.高橋北雄は津軽を渡る
藤由:大先輩で空山会(※空山先生が逝去された後につくられた弟子の会)の会長をされた方から伺ったのですが、北海道大学には、「高橋北雄は津軽を渡る」という言葉があったそうです。それは「高橋北雄(空山)先生が来ると、嵐が起こるぞ」という意味なのですが、皆、先生が来られるのを戦々恐々として待っていたのだそうです。先生はある面では大変熱烈な方で、「尺八をやるのに肺を鍛えなければならない」と考えて、一日八時間も海に入っていたこともあったそうです。また、考えごとをしながら食事をしていて、奥様から「あなた、もう八杯目ですよ」と言われたこともあったそうです。とにかく集中力が凄くて、夢中になられたときの研究心は、常人では到底及ばないほどのものでした。
『日本剣道史』の著者である直新陰流の山田次朗吉という方は、神田の古本屋に対して、「剣に関する本があれば何でも持ってくるように。」と言っていたそうですが、空山先生も同様な方法で尺八に関する数多くの文献を集めていらっしゃいました。
また、北一輝先生とも親交があり、二・二六事件の前夜、北一輝先生と一緒に、漢方薬の話をされていたそうです。(この事実によって、北一輝は二・二六事件に直接関係ないことが証明される。)北一輝先生はよく「高橋君、尺八を聴かせてくれ」と、おっしゃったそうですが、そういうとすぐにソファーで横になり、背中を向けたまま尺八を聴いていました。それは涙を見せないようにしていたからでした。
私は先生に26年間習いましたが、一度もほめられたことはありませんでした。
いつも「まだまだだ」とおっしゃってね。
途中でやめようと思ったり、もういいやと思ったりしたこともありましたよ。
でも、他の先生に学ぶということは、私には考えられませんでした。
どのようなことがあっても、「先生、どうかかまたお願いします!」といって、最後まで、先生にしがみ付いて行ったのです。
晩年、先生から「君もよくついてきたね」といわれたときは、心の底から“ほっ”としましたね。
先生は普段、そういうことをおっしゃらない方であることをよく知っていましたから。
先生は今でも時々、夢の中に出てこられて「稽古しているか?」とおっしゃいます。
先生を目の前にして、夢の中の私はいつも緊張しています。
私の心の中で、今でも先生はお元気でいらっしゃるのです。
――――お話をお伺いしまして、尺八を通じた、師と弟子の深い絆を感じさせて頂きました。
本日は大変貴重なお話をお伺いさせていただき、誠に有難うございました。
Discography
虚空 ~普化宗尺八の真髄 究極の竹韻~ 藤由越山
1.三帰依、2.虚空、3.回向、4.シヅ、5.陽関三畳、6.阿波鈴募、7.鈴法、8.下がり葉、9.十六夜、10.秋田清掻、11.宮城野清掻、12.霧海
鈴募~よみがえる大菩薩峠の鈴募 藤由越山
1.鈴募、2.供養、3.瀧落、4.江河水、5.懺悔、6.夜坐吟、7.薬師如来、8.光明、9.巣鶴