エジプト・ルクソール出身
関西大学大学(修士課程)卒業、
早稲田大学大学院文学研究科考古学コース(博士後期課程)在籍中
考古学系YouTuber
日本を愛するエジプト人
日本の子どもたちに国際理解を教える留学生教師
――――ハリームさんは現在、エジプト考古学の研究やエジプト文化紹介に関する活動など、日本語で分かりやすくエジプト文化を紹介されていますが、そもそも、日本に来られるきっかけはどのようなものだったのでしょうか。
私は子どもの頃、サッカー選手をめざしていました。しかし、応援してくれた父親が早くに亡くなったため、サッカー以外の道を考えなくてはならなくなりました。当時は勉強も好きではなかったので、専門学校に進学したのですが、ある日、実習で、レストランで働いていると、レストランのビュッフェでアジア人のお客さんが並んでいるのを見て驚きました。
エジプト人や欧米人はレストランの前で並ぶことはなかったからです。
マネージャーに聴くと、彼らは日本人で、彼らの国には並ぶ習慣があるとのことでした。
「なんて、ステキな人たちだろう♡」
一瞬にして、ぼくは日本と日本人に恋をしてしまいました。これがぼくと日本の運命の出逢いです。
そこで、マネージャーに「彼らと仲良くするにはどうすればよいのだろう?」と聞くと、マネージャーは、進学することを勧めてくれました。それがきっかけで、私は日本に進学することを決意しました。
日本では毎日6時間アルバイトをして、日本語学校を卒業して関西大学に入りました。その後、早稲田大学大学院(博士課程)に進学したのですが、研究の合間には日本の子どもたちに異文化を教えるために多くの学校を訪問して、エジプトについての講義なども行っています。
――――エジプの歴史は非常に古く、エジプト文明自体は、紀元前四千年から五千年まで遡ると思いますが、エジプト考古学はいつ頃から始まったのでしょうか。
土を掘って何かを発見する人を考古学者とすれば、世界初の古代エジプト学者は、新王国時代第18王朝のトトメス4世でしょう。
古代エジプトのルールでは、長男以外王様になることはできません。しかし、トトメス4世は王になりました。その秘密が、スフィンクスの足元に建てられた夢の碑文に描かれています。
碑文によると、トトメス4世が若いころ、魏材の砂漠で昼寝をしていると、夢の中にスピンクスが現れます。
スフィンクスはトトメス4世にこういいます。“私を砂から出して修復してくれれば、ファラオにしてあげよう”
トトメス4世は夢のお告げの通り砂漠を掘っていくと、砂の中に埋まっていたスフィンクス像を発見します。その結果、夢のお告げの通り、ファラオになることができました。
このお話によると、世界初の考古学者は、スフィンクスを発見したトトメス4世ということになります。
――――エジプトには様々な遺跡がありますが、考古学ではこれらを修復し、当時の歴史を考察していくことを考えますと、発掘と修復が表裏一体の関係にあると思うのですが、最初の修復者は誰なのでしょうか?
修復者とは、発掘者が発掘をした後、壊れているところを修復する人のことですね。
これは専門性の高い技術職ですので、現在では、考古学以外の分野の専門家も参画することが多くなっています。
古代エジプトで、最初の修復者は、ラムセス二世の第四王子、カ・エム・ワセトという人です。
この名前は、“カ”=“現れる”、“エ”=“~に”、“ワセト”=“テーベ(ルクソール)”ですので、“テーベに現れし者”という意味です。彼は、メンフィスにあるプタハ神殿の大司祭となり、(大司祭とは、神殿の責任者です)階段ピラミッドのあるサッカラを中心にある古代建造物の修復を行いました。
その目的は、砂に埋もれた建造物を修復し、記録に残すことで、古代建築技術や意匠を手に入れることにあります。それは、過去の国王に対する敬意を表し、その栄光を後世に残すことでもありました。
――――考古学自体は、古代エジプトの時代から始まっていたのですね。それでは、近代におけるエジプト考古学の始まりはいつ頃なのでしょうか。
学問としてのエジプト文明は、ナポレオンがエジプトに遠征をした時から始まります。当時、ナポレオンはフランス軍の司令官でした。領土を拡大していたイギリスはインドを統治していましたが、フランスはイギリスとインドの間の航路を遮断するため、大軍を率いてエジプト遠征を敢行したのです。まず、カイロを制圧し、次にピラミッドに行きます。ナポレオンは兵士たちに言います。“兵士たちよ、あのピラミッドの頂から4000年の歴史が諸君を見下ろしている。”と。
ナポレオンは、エジプト遠征で、4万人の兵士と167人の学者を同行させました。彼らは、エジプトからヌビアまでを調査し、古代建築物から現地の風習に至るまでの様々な記録を収集しました。これがエジプト学の始まりです。この後、ヨーロッパにはエジプトブームが起こります。
有名なロゼッタストーンは、この遠征で発見され、1822年、フランスの古代エジプト学の研究者ジャン=フランソワ・シャンポリオンが解読に成功します。
――――現在、ヨーロッパの博物館には様々なエジプトの遺跡が展示されており、エジプト国立博物館をはるかに凌駕するほどです。これは、エジプトの遺跡が国外に運び出され続けていった歴史でもあると思います。エジプトの遺跡が国外に運び出されるようになった経緯についてお教えください。
ナポレオンのエジプト遠征によって、エジプトブームが起こりましたが、これによって略奪の時代も訪れました。エジプトを訪れるヨーロッパの人たちは、観光だけでなく、盗掘まがいの調査を行い、遺物を国外に持ち出したのです。これには当時のエジプト総督府ムハンマドアリが、西洋的な近代化を促進したため、彼らの行為に寛大であったことも影響しています。
当時のヨーロッパの貴族や博物館はエジプトの古代の遺物を集めることに躍起になっていました。そのため、領事館に依頼されたトレジャーハンターたちが、遺物を掘り出し、本国に持ち帰っては売り払うというビジネスが成立します。その代表的な人物が、カイロの英国総領事であったヘンリー・ソルトと、イタリア人のジョバンニ・ベルゾーニです。ベルゾーニは、元々、自分でつくった機械を売るためにエジプトに来ていましたが、その仕事は失敗に終わりました。
そこで、ベルゾーニが出会ったのがソルトです。二人はここからトレジャーハンティングに乗り出します。
ベルゾーニは1816~1817年にかけて、ルクソールの王家の谷で調査をおこないました。ここで、王家の谷の中でも、最も保存状態の良い壁画で彩られたセティ1世の墓を発見します。入り口に置かれていたセティ1世のアラバスターは古代エジプトの最高傑作の一つですが、これも運びだされ、現在は、ロンドンのサー・ジョン・ソーンズ美術館に展示されています。
このほかにも、ベルゾーニはアブシンベル神殿の出入り口を発掘しています。ここで、彼らが運びだしたものの中で有名なものは、ラムセス二世の胸像でしょう。現在、ラムセス二世の胸像は、ロゼッタストーンとともに、大英博物館に展示されています。
当時のトレジャーハンティングによって、ヨーロッパのエジプトコレクションの基礎が形成されたのです。
残念ながら、当時のエジプトには、古代遺物の流出を禁止する法律はありませんでした。16世紀以降、三世紀にわたって、エジプトの古代遺物は奪われ、港には、多くの遺物が運び込まれました。エジプトの遺物は、国外の博物館で売ることができ、私有物とすることもできたのです。
国際的な美術館に展示されている遺物の殆どは、エジプトから合法的に運びだされています。そして、ユネスコ協定では1973年以前の古代遺物は、返却しないことになっているため、エジプトの古代遺物を外国から回収することは不可能です。
現在でも、最も大事な遺物は海外にあります。それはイギリスの大英博物館にあるロゼッタストーンや、ドイツにあるネフェルティティの胸像と、アメリカ、ボストン美術館の第二ピラミッドエンジニア像、フランス、ルーブル美術館のズリアクタワーです。
私はエジプト人考古学者としていつか古代エジプトの遺物が全てエジプトに返却されることを願っています。
(本記事は、ご本人のご許可のもと、YouTubeに投稿された動画を元に作成させて頂いております。)
アブデルアール ・アハメドさん(通称:ハリームさん)
YouTubeチャンネル ABDELAAL AHMED HALIM
https://www.youtube.com/channel/UCcGp-Iawq-qga-ZIzO2vmrw
【夫婦連載】日本と妻に恋をしました。ぼくは古代エジプト考古学研究者
https://all-about-africa.com/abdelaalhalim1/