平成18年度東京都優秀技能者(東京マイスター)受賞
令和2年度秋の叙勲「瑞宝単光章」受章
――――浅野さんは銀細工の伝統工芸士でいらっしゃいますが、これまでのご経歴について御教えください。
浅野:私は一代のたたき上げでこれまで50年間やってきました。親父を事故で亡くしましたので、叔父に奉公に行くように勧められまして、紹介されたのが銀細工の親方でした。
奉公にいってからは、本当に休みなく働きましたね。当時はもの凄く景気の良い時代でしたので、そのことも影響したのかもしれませんが、親方は遊び人風で、ゴルフに行ったり、飲み歩いたりと生活はかなり派手でした。当時は先輩もたくさんいましたが、今、この業界で親方として残っているのは私くらいではないでしょうか。私よりご高齢の方もいらっしゃいますが、80代にもなるともう仕事はできませんからね。
―――――技術を身に付けるには大変なご苦労があったと思いますが、どのようなご苦労があったのでしょうか。
浅野:親方は仕事を弟子に任せて遊んでいることが多かったものですから、先輩の仕事を見て覚えるということが修行の中心でした。そして、見て覚えた後は、自分でやってみるしかありません。兄弟子を見ていると、従業員の間は月給10万円くらいしかもらっていませんでしたが、独立すると、一日10万円くらいの稼ぎを上げていましたので、私も若いころから寝ずに腕を磨き続けました。
私は38歳で独立しましたが、独立してからは、一日20時間くらい仕事をしています。このころの苦労は並のものではありませんでしたよ。独立しても、お世話になった恩がありますので、親方や先輩のお客さんに手を出すわけにはいきません。この仕事は分業制で、私が作業をした後、次の工程の人が磨いてくれるのですが、その職人さんから「この仕事は上手い。誰が作ったんだ?」と言ってもらえるようになって、転機が訪れました。「浅野さんだよ、独立したばかりだから行ってみな。」ということで、次第に評判が広がっていきました。
鳴かず飛ばずの時代も経験しましたが、それでも頭を下げてやる仕事はやらないと決めていました。頭を下げて仕事をもらっていると、どんどんと値段が安くなってしまいますからね。
人と同じことをやっていたのでは技術は身に付きませんし、信用を得ることもできないと思っています。
――――銀を扱うというお仕事柄、信用を大切にしてこられたと思うのですが、どのようにして信用を得られたのでしょうか。
浅野:まず、材料に関してですが、金1Kgは約650万円、銀1Kgは約10万円です。(令和3年8月現在)
作品を制作する場合、金は支給してもらいますが、銀は自分で用意します。そのため、この仕事はまず、信用がなくいては始められません。預かっている金を持ち逃げされると思われたら仕事の依頼なんて入りませんから。そのため、工房には、自前のビルを用意しています。このビルは5件目ですが、アパートを借りて工房にすることはできないのです。それだけのものが買えるという信用と、セキュリティーを万全にしているという信用があって初めて、お客さんも良い材料を預けてくれるのです。住むのは木造での良いのですが、工房はそれではダメなのです。
――――工房の中にも沢山の作品が展示されていますが、どのような作品があるのでしょうか。
浅野:まず、私たちの仕事は金や銀を使用します。銀は10tの原石から1Kgも採れませんし、金であればもっと少ない量しか採れません。それほど貴重な材料を使って作品を作っています。
この大きなものは、茶釜です。これは内側に升目を引いて、一個ずつ打って作ります。完成まで二年かかった作品ですから、それは気の遠くなる作業ですよ。この作品の売値は一千万円ですが、貴金属でこれほど大きなものを作る人はいないでしょうね。
次にやかんですが、これを作るのは日本で私しかいません。把手は松の木や桜の木、竹や魚の尾を模しています。金色の部分には本物の金を使用しています。今はコロナ禍ですので、百貨店に行く人も少なくなりましたが、大手百貨店の外商部の方が来て、海外の富裕層の方たちに商いをしてくれますので、一個300万円~600万円のものが飛ぶように売れています。
景気の悪い中でも、外商部の方がうちに来てくれるのは、これまでの信用もあるでしょうが、日本で私しか作っていないものを提供しているからでしょう。オリジナリティのある商品を生み出せるから、私の所に買いに来てくれますし、値切る人もいません。
――――常に新しいものを生み出そうと創意工夫することが大切なのですね。
浅野:売れるものを作る。これが難しいのですよ。並のものを作っていては売れませんからね。このやかんは銀で作ると、水がすっと切れます。それは一枚板で作っていて、つなぎ目がないために、水がすっと戻ってくるからです。装飾も美しいものですが、水切れが最高の売りになっています。
最近は除菌スプレーの容器を作りました。これはとても小さなもので、非常に難しい仕事なのですが、一個一万三千円と、銀製品の中では一番安い商品です。
100個作りましたが、売れ行きは思わしくありませんでした。なぜかと考えてみると、今は、除菌スプレーを持ち歩かなくても、店先に消毒液を置くようになりましたからね。また、百貨店のアドバイザーの方からは、“今の若い人は詰め替え容器は使いませんよ”とのご意見もありました。
コロナ禍になってから、マスクを金属で作ったこともありましたし、今はじょうろを作っています。五葉松の中には一億円もするものもありますから、高級品を志向する人向けに、一個50万円や100万円のじょうろがあっても良いのではないかと思っています。
私はデザイナーのように四六時中、アイデアを考えています。夜中にアイデアの夢を見ることだってありますよ。試作品で残骸の山を作ることもありますが、考えるのが好きだし、新しいものを生み出すのが面白いのです。
―――――実際にどのように作品を作っているのでしょうか。
浅野:銀の一枚板を材料にしていますが、この板を機械に入れて形を作ってから、線彫りをして、タガネで打って、浮かせたり沈めたりして形を作っていきます。
道具も自作していますし、道具をつくるための道具は特注品で揃えています。
これは製作途中のやかんですが、中に松やにを入れてから叩きます。何も入れないで叩くとへこみ過ぎてしまうのですが、松やにを入れると丁度良い弾力が出るのです。
――――伝統工芸の世界では、後継者の育成が難しいとおっしゃる方が少なくありませんが、銀細工の世界では如何でしょうか。
浅野:昔は丁稚奉公という制度がありましたが、現在は株式会社でやっていますので、一人前の職人を育てるのは非常に難しくなっています。私は経営者ですので、休みなく働いていますが、従業員は同じようにはいきません。
うちには若い人が三人いますが、体調を壊して仕事に出られなくなる人もいます。そのような場合でも、給料を出して静養をさせるのですが、なかなか続かないのが現状です。
この世界は非常に厳しいので、10年やってようやく幼稚園児くらいでしょうか。他にも従業員がいますが、私の十分の一もできないというのが現状でしょう。ラーメン屋の場合、3か月修業して独立したという話も聞きますが、この世界はそんなに簡単ではありません。
私も70歳ですので、弟子たちには“早く技術を身に付けて一人前になれ。”と、繰り返しいっているのですが、私の眼には、のんびりしているようにしか見えません。
最近は、親方も人を雇わなくなっていますので、私たちのような伝統工芸士は絶滅危惧種のようになっていくのではないでしょうか。
――――浅野さんが銀細工の道に入って成功された理由についてお教えください。
浅野:母は長生きして100歳まで生きましたが、最近亡くなりました。母もすごく苦労したと思いますが、親父の分まで生きたのだと思います。母はコロナで亡くなったわけではありませんが、コロナ禍でしたので、残念ながらお葬式に人が集まることができませんでした。そのため、線香をあげることもできていません。
しかし、母を思いながらこれまでを振り返ると、私が丁稚に行こうとした日、母から「一人前になるまで、決して家には入れない。」と言われた言葉が、私の心の中の“道しるべ”になりました。その言葉があったからこそ、“努力、また努力、そして信用”と一日一日を重ねていくことができたと思っています。
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