【伝統工芸見学】江戸表具 経新堂 稲崎 (前編)

インタビュー
江戸時代は武家屋敷が建ち並び、明治以降になると料亭なども多く、賑わっていた日本橋浜町。その浜町にある経新堂稲崎は、江戸天保年間より日本橋で5代続く大経師の称号をいただく表具店です。
今回は、経新堂稲崎の稲﨑昌仁さんに表具師のお仕事についてお話をお伺いしました。
稲﨑昌仁さん
東京都伝統工芸師
一般社団法人 日本文化資産支援機構 理事
特定非営利活動法人 文化交流機構「円座」 理事
一般社団法人 東京表具経師内装文化協会 理事
江戸表具研究会 表粋会 代表
特定非営利活動法人 美術保存修復センター横浜 理事

 

横浜美術大学非常勤講師
京都造形芸術大学藝術学舎 非常勤講師

平成29年 全国表装作品展 札幌大会 札幌市長賞
平成29年 東京都表装展 都知事賞
その他受賞歴多数

――――表具店に馴染みのない方は少なくないと思うのですが、表具店お仕事についてお教えください

稲﨑:表具店の歴史は長く、奈良時代の律令制が始まった頃には既にありました。そのため、日本で最も歴史のある仕事の一つといっても過言ではないでしょう。
奈良時代、律令制のもとで定めた部署に、国の安寧を願うため、お寺に写経を奉納する仕事があったのですが、写経する人を経師と呼びました。私たちの仕事は表具屋、経師屋と様々な呼び方がありますが、経師の原点はここにあります。
また、写経したものを横巻の巻子(かんす)に仕立て上げる仕事のことを装潢(そうこう)と呼ぶのですが、経師と装潢の仕事が一つになって写経したものを木版にして売るようになります。
鎌倉時代の後期に入ると、中国大陸より「裱褙」と云う掛軸の形をした書や絵画、水墨画が大陸から伝わりました。そのため経師屋は掛軸の直しを行ったり、独自に掛軸を作ったりするようになりました。
表具を意味する「裱褙」(ひょうはい)という宋音の名称は、日本語で「ひょうほえ」の当て字をすることで「表補絵」「表補衣」「裱褙絵」などの呼び方が用いられていました。
桃山時代に入ると、茶人たちが、茶室の表で使う一番良い道具という意味で表具という言い方をしました。
江戸時代になると、現在の表具屋のルーツとなる、経師、ひょうほえ師、表具師が全て揃います。
明治以降になると、呼び方は異なっても同じような仕事内容であることから名称が絞られ、表具師で統一されるようになりました。当時、茶の湯が流行ったため、一般の人には表具という呼称が受け入れられやすかったことが理由に挙げられます。現在の京都では経師と名乗る方はほとんど居られないようです。
表具屋の仕事は、写経が始まりですが、その後、書いたものを冊子にしたり、折れ本にしたり、掛軸にしたり、画帳(スクラップブックのようなもの)にしたりと様々な分野に広がっていきました。
床の間のふすまには和紙が貼ってあるものがありますが、その和紙を張るのも表具屋の仕事です。現代では技術革新によってビニールクロスが登場して、クロス屋さんという職業がありますが、元々は表具屋が行っていたものです。建物に関係する仕事から、建物の中に飾る掛軸まで、表具屋は歴史の中で、多くの仕事を担ってきました。
掛軸を作るには、布や紙の知識が必要です。書院造の中にふすまを入れたり、床の間を貼ったりするには建物のことも知らなくてはなりません。現代でも師がつく職業は多くありませんが、表具師に師が付くのは様々な知識が必要な仕事であるからなのでしょう。

――――経新堂は大経師の称号をいただく表具店ですが、大経師とはどのような称号なのでしょうか。

稲﨑:大経師の称号がいつの時代からできたものであるのかは定かではありません。鎌倉時代、大きな寺のお抱え経師が、経を木版で刷るという仕事をやっていました。今でいうところの印刷屋さんですね。また、お寺で暦を発行していたのですが、暦を発行する権利を持つ表具師がおりました。
そこで、大きいお寺の筆頭経師であり、暦を発行する権利を持っていた人のことを大経師と呼びました。
その後、江戸時代に入ってからは、大名が経師職人の筆頭格に大経師の称号を与えて、お城に出入りすることを許しました。(大経師には名字帯刀を許される者もいましたが、職人の面倒を見る義務が生じました。)
このように表具屋の歴史は非常に長もので、時代に応じて大経師の役割も様々に変化しています。

―――――表具屋の主な仕事にはどのようなものがあるのでしょうか。

稲﨑:うちの場合、仕事内容は昔から変わりません。掛軸も作りますし、お茶室のしつらえや、内装のふすまも行います。また、絵画の修復も行っています。東洋の作品は。一枚の紙や布に直接書かれたものが多いのですが、それらは100年も経てば朽ちてしまいます。そのため、和紙で裏打ちをし直すことで作品を長く保ちます。奈良時代の作品が現在に継承されているのは裏打ちの技術によるものです。
因みに、総務省の日本標準産業分類では表具師の仕事は「布はく又は紙張りを行う事業」と定められています。表具屋の仕事は多岐にわたっているため、このようにしか表現のしようがないのです。
樹液を固めて美しい漆塗りを作るなど、無から一を作るのが伝統工芸と思われていますが、表具屋は無から作り出すものは糊くらいしかありません。表具屋は織物や紙など、既にあるものを組み合わせて一つのものを作るのです。
掛軸の場合、三回、四回と裏打ちをしますが、裏打ち紙もただ紙を打てばよいというものではなくて、全国の和紙から掛軸に向く特性の紙を厳選し使用します。一幅の掛軸には時に4~6種類もの産地が異なる紙を使い形体を安定させ保存を良好にするのです。掛軸の主役は作品ですが、その周りを作っているものも最高に素晴らしいものなのです。

近代数奇者(すきしゃ)(※1)といわれる人が沢山いた大正時代、益田孝(※2)などが、佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)(※3)を歌人ごとに切り離して、皆で所有しようとしたときに、表具師が最高の掛軸を作りました。それを昨年、京都で一堂に集めて展示したのですが、その際には、掛軸が注目を集めました。表具師はそのくらい立派な仕事を残しているのですが、現在では住環境の変化によって忘れ去られつつある仕事でしょう。
ほんの30~40年前までは木造建築が多く、お嫁に行くときには、家財道具として掛軸を持たせることがありました。そのため、百貨店にも掛軸が置いてあったのですが・・。

※1)数奇者:風流人。とくに茶の湯を趣味とする人。近代になって財界人の間で茶の湯が流行するが、こうした茶人達は多くの名物道具の収集を行っており、その様が桃山時代の数寄者に似るところから「近代数寄者」と呼ばれる。
※2)益田孝:草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。
※3)佐竹本三十六歌仙絵巻:三十六歌仙を描いた絵巻物で、鎌倉時代(13世紀)に制作された。1919年(大正8年)12月20日に歌人ごとに切り離され、掛軸装に改められた。

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