東京農大で学んだ後、植木の生産を始め、造園業を営む。
禅の大家である高橋空山居士に師事。
秦野市議会議員を三期務めた後、難関と言われる樹木医試験に合格。
秦野市内の樹木の文化財の保護、樹林の調査、診断、治療を一手に引き受ける。
書では、秦野書道協会会長をはじめ神奈川県民書展会長の要職を務めながら、神奈川県内の様々な書展の審査員を務める。
5.鈴法庵での修行
――――「高橋空山居士の世界」には、鈴法道場が文京区の吉祥寺の中にあったときの様子が語られています。石井先生は道場を秦野市に移された後に入門されていますが、道場ではどのような稽古が行われていたのでしょうか。
石井:私は最初、門下生ではありませんでしたの、先生に呼ばれたときだけ訪問していました。ですから、最初の頃は、何かを習うというようなことはなくて、皆さんがやっていることを見ているだけでした。例えば、お正月ですと、皆で集まって食事会をするのですが、食事の前に、剣、尺八、書をやるのです。それは参加者が皆でやるというものではなく、その分野で一番の弟子が先生に選ばれてやるのです。私がいた頃は、剣は、材料関係の連盟の役員の方が選ばれました。尺八は、藤由越山さん、書は当時、学校の教頭先生をされていた方でした。
そして、食事会では、いつもうどんを頂くのですが、つゆがすごく美味しかったね。うどんは先生の奥様が茹でてくださったと思うのですが、うどんの食べ方も違うのです。当時、この辺りの地域では、うどんはつゆと一緒に煮てしまうのですが、先生の所では、うどんとつゆは別々に出されるのです。それはものすごく美味しいうどんでしたね。
私の場合、入門が許されてからは、一対一のお稽古の頻度は、週に一回から十日に一回くらいだったでしょうか。農業をやっていましたから、日曜日だからといって昼間は仕事を休めません。そこで、私が通うのはいつも夜でした。一回のお稽古は二時間くらいだったでしょうか。
そこで何を学んだかと言いますと、まず、造園です。私は基本的な技術は既に学んでいて、職業訓練指導員だったのですが、先生は、造園の理論や歴史についてお教えくださいました。
次に書です。先生は書を教えられるとき、私に相対するように座られ、私の手を持って指導をされるのです。ちょうど鏡文字を書くように、先生は左右逆に筆を動かされますので、最初はとても驚きました。
基本的な書の練習には“永”という文字を書くのですが、点ひとつ書かれるのにも、ものすごく複雑に筆を動かされるのです。先生は私の手を持って、何度も何度も指導してくださいました。ようやく先生の手が離れて私一人で書を書けるようになったのは、先生が亡くなられる三年前頃だったと思います。
また、先生の流派は“筆”という字を使って筆道家といいます。この筆道家は代々さかのぼると弘法大師にたどり着く流派です。筆道家には秘伝書があり、その秘伝書を書き写させて頂いたこともありました。
――――鈴法庵では、禅、書、尺八、剣はそれぞれ必修だったのでしょうか。
石井:すべてが必修というわけではなかったね。でも、剣は必修でした。ですから私も剣は習いました。道場で稽古をするときは、他の弟子はいません、私一人なのです。先生が肩幅よりも短い竹刀を持たれて、私は通常の長さの竹刀を持ちます。そして「どこからでも打ってきなさい」とおっしゃるのです。
私は長い竹刀を持っていますから、最初はどうやっても私が勝つと思っていたのですが、竹刀は全くあたりませんでした。私が少し動いただけで、先生の竹刀は、私の目の前に達していたからです。
――――道場に行く坂を上るとき当時のお弟子さんは大変緊張したというお話をお伺いしますが、実際どのようなお気持ちでしたでしょうか。
石井:「高橋空山居士の世界」にも、道場に行くときにはものすごく緊張して、稽古が終わって坂を下るときには、気持ちがすっとして、今日は良かったと思いながら帰途についた、というようなことが書かれていますが、ほかの弟子も同じようなことを語っていられました。
私も“今日はどのようなことで叱られるのだろうか”と思いながら通うことは少なくありませんでした。普段はおおらかな先生でしたが、叱られるときはね、もう本当に厳しかったですよ。先生は禅の大家でしたから、先生のお姿を通して、禅の厳しさを教えて頂いたと思っています。
先生は常々、「日本一の先生に就かなくてはならない」とおっしゃっていました。だから私は先生の弟子になったのです。私の母も、道場に通うことをとても喜んでくれていました。
”くにのため いのちささげし そのまこと よろずよまでも たたへゆきてよ 空山”
6.剣は備わるもの
石井:私は、剣術は少ししかやりませんでしたが、刀に関心があって、現在も刀の美術館の理事をやっています。
私が先生の道場に通っていた頃の話ですが、伊豆にある製薬会社の社員寮の庭の手入れをやったことがありました。私が休憩の際に廊下でお茶を頂いていると、床の間に一振りの刀が飾ってあるのに気付きました。それは一目見るだけで本物とわかるほど見事な刀でした。
そこで、そこの社長さんにお願いをして、「この刀を見せて欲しい」と伝えました。すると、「わかった。見せてあげるから着物に着替えてきなさい」と言ってくれました。
その夜、私は風呂に入って、着物に着替え、再び社員寮を訪問しました。社長さんは約束通り、私に刀を見せてくれました。
刀は私の予想通りの素晴らしいものだったのですが、残念ながら手入れがされていませんでした。
社長さんのお身体はご病気のために思うように動かなかったからです。そこで私は、「次に訪問する時には、私が刀の手入れをしましょう。そして、もし、この刀を誰かに譲られることがあるのでしたら、私に譲ってください」と申し上げました。すると、社長さんは、「わかりました。この刀は今すぐ持っていきなさい。」とおっしゃってくださいました。しかし私は刀のお礼をすることができません。そこで、その時は、刀を譲っていただくことをお断りしたのです。
その後、社長さんは療養を兼ねて、伊豆に新居を建てられることになり、私はお庭の仕事を頂くことになりました。そして、すべての仕事が終わった後、「仕事のお代の代わりに、刀を頂けませんか。」とお願いをしました。すると社長さんは、「それでは持っていきなさい。それからもう一振り短刀がありますからそれも持っていきなさい。」と二振りの刀を手に入れることになりました。
私は先生に、その刀をお見せして、手に入れた経緯をお話ししました。すると先生は「刀は買い求めるものではありません。人に備わるものです。」と私にお話になりました。最初、私にはその意味が解りませんでした。すると先生は、ご自身の刀を私に見せてくれたのです。私は先生の刀を拝見して、“刀は人に備わるもの”の意味を理解しました。その刀は大変に見事なもので、先生のような方でなければ決して巡り合わないだろうと思えたからです。
私は刀の美術館の理事をしていますが、“良い刀があるよ”といわれても、それほど良い刀に出会うことはありません。昔は“刀と城を取り替えた”という話があったくらい、刀は大切なものだったからです。私は先生の刀を全て拝見していますが、その中でもひときわ目を引く刀は、林銑十郎元首相から譲り受けた刀でしょう。先生は林元首相の禅の先生でしたが、あるとき、林元首相のご家族から先生に、墓碑の文字を書いてほしいと願い出たそうです。先生はお断りになられたそうなのですが、林元首相のご家族が「それならば、東京で爆弾が落ちたとしても私はここを離れません。(注:当時は戦争中でした。)」と言ったために先生は書くことにされたそうです。
刀はそのお礼として譲られたものですが、林元首相は陸軍大将だった方です。当然、普通の刀であるはずはありません。
皆さん、正宗の名はご存じでしょうか。刀は正宗の弟子である、正宗十哲の一人が造られた名刀でした。ですから、先生の刀は、普段、刀を見ている私の目から見ても格段にレベルの違うものばかりでした。
7.尺八の音色
――――空山先生の尺八は、現在もYouTube等で聴くことができますが、それらは全てレコード時代に録音されたものです。実際に先生の尺八はどのようなものでしたでしょうか。
石井:皆さん、空山先生の尺八は直接お聴きになったことがないのですね。
例えば今、鶯(うぐいす)が鳴いていますね。鶯は“ホーホケキョ”と鳴きますが、最初の“ホ”の音はどこから始まるのでしょうか?“ホー”と聞こえ始めると鶯が鳴くのがわかりますが、“ホ”の音が聞こえ始める前に、どこから“ホー”と鳴き始めているのかはわかりません。先生の尺八を聴いていて、鶯の鳴き方と同じだなと感じたことがありました。
私自身は尺八を吹くことはないのですが、稽古場で他の弟子が吹いているのを沢山聴きますと、先生の尺八とはここが違うなというのは良くわかりましたね。
――――現代では、門下生になって禅や芸道を学ぶ機会は非常に少なくなったように思います。お話をお伺いいたしまして、禅の精神が師から弟子へと伝わっていく様を垣間見させて頂きました。
本日は大変貴重なお話をお聞かせくださいまして誠にありがとうございました。
8.書
石井泰山先生の書をご紹介いたします。(編集部)
インタビュアー:嶋崎